愉快な空気達

2.3年前に廃棄ブログとして捨てた場所を時々使うマン2017

我々が記録的であるならば、諸々雑に省略する系譜を断ち、代わりに得た物がこれであるとし、それがニヒリズムによって開かれた死出の門であるとするならば彼等を殺したのは我々なのではないだろうか

TwitterアカウントSupermarket042が消えたらしい。
らしいと言うのもなんとなく自分の観測範囲からは痕跡を追えなくなった。ということで、割と探せばあるのかもしれない。あと多分Supermarket501は今のアカウントの前IDですね。
 すーぱーまーけっとと言えば、語る程の歴史も無くはないWUG棒バトの閉鎖的歴史において一種の技術特異点とさえされる存在ではないでしょうか。蒼き炎等の頃は特に近年(2017〜2020現在)の滑らかな動きの基礎であるとする見方も多いような。


 そんな感じで割と現環境で殆どの棒人間バトル(主にうごくメモ帳で製作された作品の事を指す)の骨子にはすぱまけの血がある。そしてまたこれが作品を劣化すぱまけみたいなやつなんて認識があるのも随分と息の長い話になりました。
 大抵こういう話がTwitter上で騒ぎ出すと大して熱意の無い微妙にロートルくさい方面から若い奴は元気があっていいなぁホッホッホ。好きにやればいいんじゃよみたいな冷まし方を適当にやってそれとは関係なく本人達は毎回有耶無耶に終わるアレの1つです。
 まぁ毎回これが湧き上がる度に反応するのも面倒くさく、かと言って何も思ってない訳ではないけどこの意見をTLに垂れ流すのも面白くないから反応しなかったということもあり、適当にここに置いておきます。


 所謂すぱまけらしさとは何処から来るのかとか、そうなってくるとまずは動きの滑らかさが特に言われます。自分はぶっちゃけここだけのような気がしますが、ここは果たしてすぱまけが居なかったら誰もやらなかったような部分であったろうか、とか最近は思ったりしています。自分もすぱまけ風的なことを言ってた1人ですけど。しかし、事実を参照し過去との経路を結び提示されている物に対して『仮にこれが無かったならば』という論を雑に投げかけるのも強度の低い提起です。

 そもそも、こんな文を書いたとして、仮に後述が正しいとなったとして、今現在暫定的に存在する呼称を否定し得る理由にはならないとも、意識的にすぱまけのエミュとしてやっていた時もあるだろうとかはありますが。
 まぁ、やはりすぱまけ風はすぱまけ風を冠する程すぱまけによって構成されている物であろうか?とは思う訳ですが。

 自分は動く物を描くという意識の中で、棒バトは比較的敷居が低い物だと捉えています。だからこそ、今現在すぱまけ風と呼ばれる物は棒人間を平面で動かす事の習熟が早熟であったからこそ、人体のディフォルメをアニメーションとして落とし込んだ物では無く、棒バト『らしい』平面で断面図的な構図と噛み合う棒人間の動かし方を得た『極めて棒バト的』で、つまりは『棒バト的』な成長だと捉えています。

 それは一般的なリミテッドアニメーションを越える技術ではなく、また同時にそれとの乖離を経た後の一般的な変化であるとも。



 この『棒バト的』諸々を肯定した時に出てくる過去の技術とかに対しての扱いとか諸々が今回の記事のタイトルです。勢いで書いたのが文体合わせられないしそのままぶっこみました。
 別にこれを皆が考えてるなんて思っちゃいないし、こんなことを考えてたならその時間で棒バト書いてほしかったです。俺はいつもそんな事を考えてます。あんまり知られたくないし恥ずかしいので皆には秘密だよ。読んだことを忘れろ。