愉快な空気達

2.3年前に廃棄ブログとして捨てた場所を時々使うマン2017

映画を見過ぎ 水が美味杉 

劇場版を本編未視聴で見てその後本編見てまたその後劇場版を見た作品の書き殴りです。
監督インタビューによると観客から遺された物、そして覚悟と共に演者が喰らう物らしいですね、トマト。
元々は血の滴るキリンのステーキの予定だったらしいですね、
トマト。

まぁそれはそれとして、トマトにはrotten tomatoesからきている部分があると思ってます。わざわざトマトだし。
元を考えれば血肉の類似も勿論あると思うけど。
rotten tomatoesであるなら、それを口にする事が他者に対しての批判を行う者としての立場を示す事になるとは思ってたんですけど、特にワイルドスクリーンバロックのそれぞれのぶつかり方を考えると、この時はまだトマトを食べてない神楽ひかりが霧崎まひるとの対面が一方的な舞台になったのはそういう事でもあったのかなぁと。
列車に乗り込む時の広告が短剣に刺されるトマトだったのは、そういう未然形としての文脈を明示している物として解釈したいもんですが。
あ、オーディションとしての舞台の終わりが死で、それにより燃え尽きた物がトマトか。死と再生の自覚のスイッチ

7話の大場ななとか最終話のキリンの時点でこちらに語りかけるような視点はあって、観客を認識するメタはこのタイミングであった訳ですけど、ここから更に劇場版で作品自体の認知に繋がるようになるのはすごかったです。
メタとして自身を創作物として認識するってのは割とある題材ですけど、同時に作り物であるという人格面の破綻へのフォローはあまりされないんですよね。これ自体はそこまで徹底する必要はないんですけど。それを受け入れる精神性の掘り下げは割と冗長になるし。
ただ、この映画の場合はそれを演目として見ている人がいる→それはスクリーン越しの観客であるっていうのが、作り物を見せられている事自体がキャラクターにとっても限定的な環境である事を示していて丁寧だなと。
これがあるとキャラクターの物語は舞台の外でも勿論続いていく事に輪郭があっていいですよね。
メタとしての認識が広がる事でキリンもまた観客という役割として演じる側に回ってそうな感じ、ありません?
解ります?

7話の締めや最終話のキリンは既に視聴者としてのこちら側に目を向ける動きをしていて、これは裏方も見る側であるからなのかなとか思ってたんですけど、
トマト食った後の神楽ひかりとかも見えてて、愛城華恋はその認識を経て死に、マッドマックス式再生産に繋がって行く訳ですけど。死んでる事にも気付かずに後ろでトマトが弾け飛ぶ女、愛城華恋なんです?神楽ひかりが渡すトマト、最初で最後のファンレターなんです?
って感じだと観客側の視点なんすかね。観客が見えるってのは。ファンになりそうだから逃げてた神楽ひかりがトマトを食べたら見える様になってるの見るに。


大場なな、やっぱりあそこから卒業までももうバナナ菓子作らないんだろうか。
でも寝相は悪いままだったりするんだろうか。
皆喋りすぎはアレ皆殺しの時でもわざわざ言う辺り認識が広い故の感じなんですかね。厳しいすね。
相悪いままなんですかね。
ロンドンで神楽ひかりと上っ面クールビューティー内面ポンコツコンビで行くんだろうか。どうなんだろうか。
相悪いままなんすかね。
殺してみせろよ 大場なな 
下の句感あるけど使えないんだよな 
大場ななななじゃないと
やっぱ寝相悪いままなんすかね。
そんな感じです また次回